自分の音を録画録音することの有用性
ゴーシュです。
前回の記事でちょこっと書きましたが、自分の音を録音して聴くことの有用性について喋っていこうと思います。
前回の記事で、自分の音を自分でリアルタイムで聴く時の音と、人が聴いている音は異なると言う話をしました。これは感覚とかそう言うところも大きいですが、そもそも物理的に違うんだよ!と言う話をまず少ししたいと思います。
自分がチェロ弾きなのでチェロを引き合いに出します。
チェロを弾くとき、弾き手は空気に向かって発信する音波はもちろん、チェロ本体を伝わって胸や膝に伝わってくる振動、床にエンドピンをさすことで床に伝わった振動を足で感じる振動など、何種類かの副次的な振動を感じています。
一方聞き手は、空気を純粋に伝わってきた音と、床を伝わってきた振動のみを受信します。楽器本体の振動は伝わらないんです。(もちろん触ればわかるけど)
もちろん空気に伝わる振動は楽器の様々な震えに起因しているので無関係ではないですが、骨伝導的な音の伝わり方はどうしても聞き手にはわからない部分になってしまいます。
ちなみに骨伝導とは鼓膜を介さず、振動がそのまま頭蓋骨に伝わって、聴覚神経を直接刺激することによる音の伝わり方のことです。
実験コーナー:イヤホンジャックから出る二本のケーブルと途中で切断し、それぞれをモーターの二極に繋ぎ、モーターの芯に割り箸などの棒を接着してその棒を歯で噛んでイヤホンジャックをプレーヤーに繋いで曲を流すと、音は一切流れていないはずなのになにかが「聞こえ」ます。面白いので是非どうぞ。
はい、話が逸れましたが、要するに弾き手は感じていて聞き手は感じていない振動がたくさんあるのです。歌などでも同様ですね!
そのような環境では、聞き手に届く音の情報が
減ることはもちろん、減ることによって他の何かが際立って聞こえてしまうこともあります。
音を聞き、評価してくれる方々の立場はもちろん必ず聞き手になります。なので、弾き手にはさほど強く聞こえていないミスが聞き手にはしっかり聞こえてしまってある場合にはなんとかしないといけませんし、逆に言えばもし弾き手のみが感じている不具合はそのままでも別にいいということになります。
よく他の人の練習などを聴いている時、本人が躍起になって直そうと練習している姿を見ながら「いや、もっと他にヤバいとこたくさんあるだろ」と思ったことはありませんか?
聞き手にはさほど問題だと感じられない箇所に固執してしまうのはこれが理由の一つなのかもしれません。
かといって練習の時に必ず人にいてもらって聞いてもらって率直な意見を言ってもらうわけにもいきませんよね笑
そんなときにこちら!
「レコーダー」
ほんっとに便利なんですコレ。
気持ちいいんです!!(知らない方はそれで結構です笑 YouTubeなどで有名な通販の人のセリフです笑)
自分の音を聞き手として聞かせてくれるんです。当たり前ですがこれを有効活用しない手はないですね。
もちろんレコーディングのように雰囲気用のマイクまで用意してやる必要はありません。あくまで参考用ですから。なのでもちろんレコーダーで完璧に自分の音を再現できるわけではありません。
でも、なんとなく、きっと聞き手に聞こえているものに近いであろうものを掴み取ることはできます。少なくとも自分が軽視していた音程のズレ、弓や指の移動音、マンネリ化したつまらないビブラートなどに気がつくことができます。
何事も、何かを直すためにはそれのどこがどう間違ってて気持ちが悪いと思うのかを掴み取らないといけませんね。
そういうことが、レコーダーならできるんです!
ではでは、今日はこの辺で。レコーダーを練習に組み込むことの良さについてお話ししました(*^o^*)
「耳が良い」とはどういうことか。
ゴーシュです。
更新遅くなってしまいましたがそのかわりなかなかの長編です。読んで下さると幸いです!
よく褒め言葉として「耳が良い」という言葉を聞きますね。
なるほどとすんなり思えるようでよくよく考えたら使うのがなかなか難しい言葉のように思えてくるのです。
少なくとも耳がいいという文字面だけをみるとこれは、耳、つまりインプットをする部分の上手さを褒めている表現です。
しかし一言で耳の良さといっても、それが指す内容は様々で、
例えば
・録音したマイクの良し悪しがわかる人
・音程の違いが正確にわかる人
・絶対音感がある人
・音楽表現の機微を掴み取ることができる人
などに対してこの言葉が使われた経験が私にはあります。
しかし、耳が良い、とは果たしてこのように「正確さを感じ取れる」ことを指しているのでしょうか。最近になってすこし変化が加わった考え方を喋っていこうと思います。
まずは変化の前、私がずっと抱いていた考え方。ここが一番軸となる部分なのでかなり長めになってしまいます。
今までの経験上、もちろん楽器や歌がプロ、又はプロ並みに上手い人はやはり耳がよく、細かい差異や違和感に気がつく傾向がありました。
しかし、逆に耳のいい人の中には本人の楽器や歌(つまり音楽のアウトプット)が下手という人も多いように思えたのです。
すこし論理的に書くと、
楽器や歌などのアウトプットが上手い人の集合を集合A
耳がいいという、インプットの上手さを持つ人の集合を集合B
とすると、
A⊂Bは真だけれど
B⊂Aは偽ということになりますね。
さらに言い換えると、アウトプットが上手い人はもれなくインプットも上手いが、インプットが上手いからといってアウトプットが上手いとは限らない、ということです。
たくさん言い換えて逆にわかりにくかったかもしれませんが、どこかでわかってほしいと思ってたくさん書いてみました。
ここで私が特に不思議に思うのは、「耳がいい人でもアウトプットが下手な人がいる」ということです。しかも経験上、そういう方々は耳はいいはずなのに自分の演奏に対して特にネガティブな印象を持っていないことが多いのです。
ここで考えられる可能性は
・彼らは自分の演奏を嫌ってはいるが隠している
・自分の演奏を、自分の脳でフィルターをかけて聞いてしまっている
・そもそもその人が耳がいいというのが間違い
・アウトプットが下手だと思ったこちら側の判断がおかしい
・耳がいいという考え方はアウトプットとは関係がないから関係を考えること自体がおかしい
などが考えられました。
この中で一番現実的なものは、二番目、フィルター説なように思えます。
音楽はインプットとアウトプットの連携ですから、関係がないとは言えないと思いますし、アウトプットが下手、というのは私1人の判断ではないことも多いですし、その人の耳がいいというのも疑うところではないかなと思いますし、彼らは涼しい顔をして演奏しているようにどうしても見えてしまいます。
もし彼らが彼らなりのフィルターをかけていると仮定した場合、せっかくのいい耳を自分の音楽に適用しない宝の持ち腐れ状態になっているのではないかなと思うのです。人間なんてどうせ主観的な生き物なのである程度のフィルタリングは仕方のないことです。自分が出している音を自分で聴く音と、その音をほかの人が聴いている音は物理的にもかなり違うといわれていますし。録音などでふと自分の喋っている声を聴いた時の違和感がまさにそれですね笑
なので、自分の音をほかのCDを聞くときのような客観的な土俵に上げてやるために、私は自分の録音を頻繁に録るのです。そうすることで、自分の演奏を出来るだけ客観的に批判したり褒めてやったりすることができると思っています。
ここまでが以前の自分の考え方です。長かったですね。お付き合いありがとうございます。
ここまではかつての私の、私なりの仮説に基づく頑なな考え方でしたが、実は最近はここにもう一つ付け加わりました。それは
「自分がどれだけ下手でも知ったこっちゃない。プロではないのだからやりたいようにやれる範囲でやれば良い」という考え方です。
これは当たり前のようで、練習に練習を重ねて舞台に立たせていただいていた私にはあり得ない発想でした。音楽を、できる限りの完璧さの中ではなく、自分の可能な範囲内で抑えておくという考え方はなかったのです。もちろん完璧などできるわけはありませんが、時間と労力を存分に費やして一生懸命に精度を上げることこそが良さだと思っていましたから。
なるほどそう考えれば耳のいい人が自分のアウトプットの精度の悪さに目を瞑ることができることにも納得できます。
そうなると、「耳の良さ」という表現の私の定義も変わってきます。数ミリオーダーのような正確性やその差異に気づくセンサーの敏感さではなく、自分の思う良いものを良いと思い、メーターの針を振らせることができるということを、この「耳の良さ」という言葉は指しているのかもしれません。
終わり方がなんとも尻切れトンボになってしまいましたが、この辺りで一通り話させていただいたのでこの辺で終わりにしたいと思います。
今回はだいぶ長くなってしまいましたがお付き合いありがとうございました!!
(*≧∀≦*)
5回練習
こんにちはゴーシュです。
今日は私のチェロの練習において核となるような練習方法についてお話ししようと思います。
それが
5回練習
です
5回練習とは簡単に言うと五回連続して成功するまで次のセクションに移れないと言う練習方法です。
よく、一度や二度成功しただけでできたことにして次の練習に進む人がいます。練習を早く済ませたい、「練習をした」という実績が欲しいだけの人はそれでいいでしょう。ただ、そんな練習方法ではいつまでたっても微々たる成長しかありません。
この練習方法とルーツを共有する考え方としては「練習で120パーセントの成果を出さないと、本番で100パーセントの成果は出ない」というものがあります。要するに、本番は練習の大体20パーオフ程度の実力しか出せないってことですね。嫌な割引セールですねホント…笑
5回練習も考え方は同じです。五回連続してできないような完成度で、本番で成功すると思っているのか、っていうことです。体操などのアスリートにとっては、技ができるかどうかのギリギリのところで闘っているためこれは通用しないかもしれませんが、音楽、少なくともクラシックでは、技術はある程度できて当たり前、その向こうにある表現を工夫するというものだと思っていますので、5回くらいできて当然、という考え方になります。
詳しいやり方としては、
まずは練習したいところを短く区切ります。その一区切りの中に、練習が必要な箇所が二つ以上含まれないようにしましょう。一箇所につきひとつだけの練習箇所を含めます。人間二箇所を同時に気をつけることはできませんから。もしどうしても二つ以上入れないと気持ち悪くなってしまう場合は、「今はこの練習箇所を練習する」と一箇所のみに5回練習を適用して、あとの練習箇所はとりあえず適当に弾いておきましょう。
意外とこの区切りが難しいんです。「弾けてない」だけではなく「どう弾けてないのか」、運弓ができてないのか運指が絡まってしまうのか、その辺りの原因究明ができていないと区分けができず、5回練習にすらたどり着くことができません。
区切ってしまえばあとは簡単(?)です。5回連続できるまで繰り返し繰り返し練習します。
1セットで成功することはまずありません。初っ端から5回連続できれば、それはつまりもともと弾けてたわけですから笑
私も、一セット目で5回連続でできたことは多分一回もありません笑
ポイントなのはこの時に自分を甘やかしてはいけないということです。まぁ、ある程度弾ければいいや、っていう時ならまぁまぁ甘くてもいいですけど、人前で弾くような時にはそれでは許されません。「疑わしきは罰する」くらいの勢いでやらないといけません。
そして、5回「連続」です。たとえ4回目まで上手くいって、5回目で失敗したとしても、もう一度1回目から積み上げなおしましょう。連続でないと意味がありません。
私もこの練習方法を始めた時にはもう死ぬかと思いましたが、逆にいうと5回さっさとできるようにしてしまえば練習はダラダラやるよりも圧倒的に早く終わります。
この練習方法で弾けるようになったという成功経験は、本番でのメンタルにもかなり影響してきます。「5回連続でできたからきっとできる」という気持ちで、ポジティブに弾けるんです。自分で練習終了の判断基準を決めたり、自分に厳しく査定したりする意味はここにあります。適当に5回やって「多分できたわ」の気持ちのまま本番に臨んで、自信を持ってそこを弾けると思いますか?
あとあと気持ちが楽になると思って頑張ってみましょう。
少し厳しめの口調も含んでしまいましたが、これが私が練習でいつもやっていることです。技術的に上手くなること請け合いなので是非トライしてみてください!!
それでは(๑˃̵ᴗ˂̵)
ゴーシュという名前の意味
こんにちはゴーシュです。
早速第2弾ですが、今回はこの私の名前「ゴーシュ」について書いていこうかなと思います。
前回の記事で言ったように、このゴーシュという名前は宮沢賢治作「セロ弾きのゴーシュ」から拝借した名前です。
私にとってこの「ゴーシュ」は、「Gauche」と綴るのですが、これはフランス語で「左手の」という意味らしいです。またそこから派生して、「ぎこちない」や「気の利かない」とか「鈍い」とかいう意味がある言葉のようです。そういえば、宮沢賢治の童話の主人公も融通が効かなくて愚鈍だと周りの人たちに笑われていましたね…!
私は元々自分のことを、おっちょこちょいでぶきっちょで、いい意味でも悪い意味でも鈍さを持っている人間だと思っていたので、Gaucheという言葉の意味を知った時は実に私ににぴったりの名前じゃないかと思いました。
自分の名前をゴーシュにすることを決めたしばらく後、フランス人たちにこの言葉がいい印象を与えないということを知りました。が、よく考えてみれば当たり前のことで(褒めてる言葉じゃないですもんね笑)、まぁ、フランス人と絡む時にはおそらく本名でやり取りしますし、そうなるとフランス人にこの名前を聞かせる機会はそうそうないと思ったのでこのままでいいやっ、という軽い感じで名前を使い続けております。
ゴーシュの持つ悪い印象はこっちに置いておいて、愚鈍だからできる愚直で素直な感情表現や温かみを目指して日々色々と考えております。
では今回はこの辺りで!また次回!